金光組の歴史
大正12年より請負士の許可を受けた事に始まった金光組の歴史。
その足跡やあゆみをご紹介します。
大正12年〜創業時代
金光組の始まりは曾祖父、松太郎が当時糸崎にあった田中組(山陽鉄道(国鉄の前))の仕事の現場監督(個人事業主)として従事しておりました大正12年、その田中組の社長様が亡くなられ会社解散に伴い、本格的に仕事を受けるようになったのが始まりです。当時は警察署長より「請負士を命ずる」といった許可証をもらって仕事をしていたようです。 昭和初期には村会議員としてお世話をしていた関係で頼まれごとが多く、その中に石垣を積んでほしいなどといった地元の困った事を行政に掛け合ったり自ら出来ることは手伝っているうち個人事業主数人で建設業を共同経営で始めます。(数年後金光組・三原建設・播磨組にわかれ独立)その当時手掛けた仕事には県の護岸工事、沼田大橋、尾道駅現地下道、呉線などがあったと耳にしていますが、現在の市内外の骨格を作る土木作業に携わっていた事に感慨深い思いがします。 |
祖父、勇も昭和10年頃より建設業を営む父、松太郎の手伝いをしていたようです。戦時中、勇は(その経験からか)大分の海軍航空隊の測量をする仕事に就いていました。勇は若くして結核の病を患い余命数年と宣告され、四国八十八か所の巡礼に出かけました。その甲斐あってか66歳まで建設業に携わり、生涯肉を口にしなかったようです。(願掛けをしていた) |
昭和20年代〜昭和30年代
二代目勇が土木技師としての経験を活かし、三菱構内の線路の保守、そして鋳造、鍛造、人夫出しの仕事を手掛けるようになりました。それというのも、三菱は戦前より貨車、蒸気機関車など製造していたため国鉄糸崎駅構内から三菱構内まで引込み線があり、その線路の保守を全面的に任される様になっていました。その後、三菱構内のクレーンレール、トロッコレール等の施設の新設、保守もすることになったため、それに伴う土木工事もするようになり、軌道工事全般に広がっていきました。 |
昭和25年頃許可制から登録制になり、正式には昭和34年4月2日に株式会社を設立し社員が50〜60人位になりました。 昭和38年頃には菱三商事の紹介で三菱製(キャタピラー三菱)の当時としては最新のユンボ(ショベルカー)を三原市内で最初に購入しユンボのチャーター業へも進出していく事になりました。 そして福山の日本鋼管福山製鉄所の造成工事に参入し、昭和41年に福山市大門町に土地を購入して金光組の重機部営業所と修理工場を建設しました。 この頃の土木工事は主に官公庁、三菱重工業などが主で建築工事としては労働金庫(宗郷団地、小坂団地)三原市(中之町小学校、同校プール)又、寺田鉄工、大和ハウス工業の下請負等をしていました。 |
昭和40年代〜現在
昭和40年代に入り高度成長期に伴い、大型重機土工、大和ハウスの代理店なども手掛けるようになり建築工事の仕事も手掛けるようになりました。この時代社員は100人以上になっていました。その後、時代の流れの中で三菱も貨車や機関車の製造を止めたため、三菱内での仕事量も減少し次第に一般の公共工事、ゼネコンの下請負へと主軸が移ってきました。そのような中で昭和46年、福山の重機部門を金光組より分離し新たに金光重機として設立するに至りました。そして、それが後の昭和重機、昭和ゼネコンへと社名を変更していく事になります。 |
昭和55年には、城町へ金光ビルを建設し、それまで三菱構内にあった事務所を現在地に移転します。高度成長に伴い多くの建設会社が生まれ、大きくなっていきましたが、当社はあまり派手な事もせず地道に歩んできました。数年前に不動産総合サービス㈱を立ち上げた事をきっかけに中古住宅のリフォームなど手掛けるようになり現在はリフォームやバリアフリー工事の依頼も頂けるようになりました。また三菱重工三原が受注される車輌の製作・テスト走行・納車の流れの中でテスト走行用の軌道・レール・保守の仕事や車輌の組立や検収業務などもおこなっています。現在は公共工事・大手ゼネコンの下請け・民間工事・三菱構内業務・不動産業を軸に頑張っております。 |